吹奏楽と二軸感覚

(2003.07.29)

京都大学、文学部一回生、Kさんより吹奏楽と二軸感覚について興味深いメールが寄せられました。


 ここ数日間、私の頭は二軸でいっぱいでした。というのも、明日の運動科学の試験勉強のために教科書を読み返していたからです。四月に教科書を買って最初に読んだときは、何が何だか訳が分からなくて、全く読んだ気がしなかったのですが、今回授業を一通り終えて読んでみると、一度目には分からなかったのが自分の身にひきつけて理解できるようになっていたところが多々ありました。また、実は毎回の授業でも実体験と重なる部分や、同じことが違った場面でも見られることに気づいていたのですが、ついつい惰性に流れて一度もメールを送ったことが無かったのです。しかし教科書を読んで(毎回先生もおっしゃっていたことですが)、この運動科学という分野が本当に様々な人との意見交換や新しい見方の発見などを通してここまで発展し、これからもそのように進んで行くのだということに改めて気が付き、そのプロセスの中で同じ大学に通う学生の意見も研究の新たな切り口になっている事実に大変感動しました。なぜなら、この過程は、高校で吹奏楽をやっていた際の曲を作り上げるプロセスと大変よく似ていたからです。詳しくは後ほど触れるとして、今回のメールでは私が運動科学の講義や教科書を通じて感じたことや気がついたことを、文章は整いませんがとにかく書き連ねてみたいと思います。

吹奏楽から運動科学を考える

 私は中学生の時から吹奏楽に親しみ、高校では勉強そっちのけで吹奏楽に熱中していました。(京大にはこういう部活大好きな人が結構多いですよね。受験勉強だけやっているのが中心軸だとすれば、部活と勉強の両立が図れるのは二軸感覚と言うことも出来るでしょうか。)

 吹奏楽の醍醐味というと、やはり皆で音楽を作り上げる楽しさですね。これは、先ほど触れた運動科学の成り立ちに非常に良く似ています。特に私の学校では、例えばコンクール曲をやるにあたって、たくさんの方々の協力を得ます。一人の指揮者が一人で自分好みの曲を作る学校もありますが、私の学校では多くの違った分野の方々が訪れて私たちの演奏を聴き、様々な意見を出してくださいます。そうすると、一人の指揮者では見えなかった音楽の構成が、異なる楽器・分野の見方により発見されるのです。まったく無関係に見えたソプラノサックスとユーフォニアムが実は補完し合っていた、なんてこともありました。そしてもちろん、私たち演奏者自身の意見交換が曲作りには欠かせません。

 運動科学にも、実に多種多様な分野の方々が登場しますよね。ここが運動科学の大好きなところです。学問となると、つい自分の専門に閉じこもってしまいがちです。スポーツの世界でも自分の競技に固執してしまう傾向があるかもしれません。(吹奏楽では、指揮者がホルン奏者であれば、どうしても金管に目が行って木管が弱くなってしまうなんてこともあります。)しかし、そのような閉じた視界ではなく、もっと様々なアプローチをしてみようじゃないか――これが運動科学の本質の一つのような気がします。剣道の有段者やドラマー、水泳の監督、黄金比に江戸時代の浮世絵。全く無関係に見えることが、実はどこかでつながっていることの面白さ!総合人間学部の代表される学際的な研究の醍醐味ですよね。これからの時代はこのような巨視的な研究やトレーニングが何か大きなことをやってくれるに違いありません。

 吹奏楽でもただ座って楽器を演奏するのではうまくなれません。合唱を取り入れたりヨガの呼吸法をやったりします。かのモーリス・グリーンはスケートの清水選手の動きに学んでいますし、私の大好きな桑田投手(リハビリ中の走り込みで練習球場に『桑田ロード』が出来たことを知ってファンになりました!)も古武術の動きを取り入れています。専門を離れることの不安はあると思いますが、今後このようなアプローチによるスポーツ界の活性化が起こると、より面白くなるでしょう。その推進力の一つとして、この運動科学が各界ですでに動き始めているのですね。私の高校の陸上部は、今の状況はちょっと分かりませんが、全国大会の常連校です。もし機会があれば、陸上部の顧問の先生に、運動科学のテキストを渡してみようかな…などと考えています。

吹奏楽に見る運動科学

 最初の授業で、腕は肩からでなく胸鎖関節からついていることを知りました。そして、私が真っ先の感じたのは、タクトを振る指揮者の腕の動きです。練習で学生指揮者が振るのと、指導してくださるプロの指揮者の動きはどこが違うのか、ずっと考えていたのですが、その答えはこの胸鎖関節にあったのです!(私の目からウロコ落ち@)

 学生指揮者は肩を軸にして、肩から下だけを使って決められた指揮の拍子の動きをします。確かに機械のようで拍子は見えやすいのですが、如何せん、吹いている側としてはつまらないのです。しかし、本物の指揮者の動きは、腕を胸鎖関節から動かしていますから、大きな動きや繊細な動きが可能です。演奏というのは指揮者のタクトから引き出されるものですから、その指揮者の表情豊かな腕の動きに導かれて、当然よりダイナミックな生きた演奏が出来るようになるのだと思いました。もし機会がありましたら、テレビの演奏などで指揮者の腕の動きをご覧になってください。中にはあまり棒を振らないのが個性という指揮者もいらっしゃいますので一概には言えませんが、あの指揮者の腕の動きを可能にしているのは間違いなく胸鎖関節ですよ!シンクロにおいて胸鎖関節が腕を長く見せるのに一役買ったように、胸鎖関節には表現力の面でも様々な可能性を秘められているのですね。

 今はもう見られなくなりましたが、吹奏楽界の国民的錯覚として腹筋を鍛えるというのがありました。私の中学でも何年か前には基礎練習の一つとして腹筋運動をやっていたと聞きました。吹奏楽では「お腹で支える」とよく言います。しかしそれは腹直筋を鍛えるのとは違うのです。6月23日の講義で腹筋が取り上げられたので、とても興味深く聞いていたところ、吹奏楽で言われるところの腹筋が少し分かったような気がしました!(私の目からウロコ落ちA)

 スピードのある音や切れのあるタンギングには、暑い日に犬が舌を出して「ハッハッ」というようなお腹の使い方(もしよろしかったらやってみて下さい!)が必要な場合もあります。しかし、「お腹で支える」というのは腹圧を高いままに保つことだと私は理解しました。この時働いている筋肉は、腹直筋ではないのですね。ひとつのフレーズが様々な楽器の絶妙な絡み合いによって豊かに響くように、腹部の全ての筋肉が共同して作用することで腹圧を保つことが出来る!体の仕組みには、本当に感動します。腹直筋だけを鍛えるような見かけに騙された対症療法的な練習では効果は上がらないのは当然ですね。

 私の高校では呼吸法という練習を毎日欠かさずやっていました。それは例えば、8拍吐いて4拍止めて8拍吸うのが1セットでこれを5回というものです。この4拍止めている時間を入れることで、腹圧に関係する筋肉の全体を鍛えていたのが今になって分かります。呼吸法をきちんとやらないと、その日一日、息が入りません。準備体操のようなものですね。この呼吸法、コクールの本番前には必ず皆で集まってやりました。この日だけはなぜか、息を使わないはずの打楽器や弦楽器のメンバーも一緒にやります。息を吸いやすくするという効果はもちろんですが、私たちの中では結束力を高めるという意識もありました。いつも通りのことをやるという暗示もあったのかもしれません。しかし、講義で腹圧の上昇によって気分が落ち着くということを聞いて、驚きました。私たちは本番前、呼吸法を通してひたすら「腹を据え」ていたのですね!(私の目からウロコ落ちB)イチローの脱力、相撲の「はっけよい」など、呼吸の大切さをつくづく感じます。

 この「腹を据える」にはもう一つ、「密息」があります。中学の時にえらい先生から教わったのですが、肋骨を広げて吸った息を、呼吸を止めた状態でぐっと下に押し下げるというものです。本番、ステージに上がってこれをすると息が入りやすくなり、同時に心を落ち着かせられる、と先生はおっしゃっていました。確か、ヨガの呼吸だったと思います。土管のようにどっしりと構えることが出来れば、多少の失敗も怖くありません。

 吹奏楽における二軸についても考えてみました。まず、構えについては恥ずかしくてもややガニ股です。(これは外旋立ちですよね。)そして軸については、頭の先を糸でつるされたように、という中心軸的な指導をされることがよくあります。ここからは少林寺の進矢さんの授業に関係するのですが、主観では中心軸として意識されますが、客観的には股関節と言う二軸を用いているのです。それは座って構えた時に座骨の二点を感じることからも分かります。疲れてくると、この座骨が本当に痛くなるのですよ…。そして、よく言われる楽器がうまい人ほど自然と横に体が動くというのは、今思えばそれは二軸感覚を楽しんでいるといえるかもしれません!(私の目からウロコ落ちC)

 下手な人ほど不自然に縦揺れになったり、体が動かなかったりします。そしていったんこういうことが言われ始めると、まるで風に揺れる稲穂のように、メンバーが同じように揃って横に揺れる気持ち悪いバンドが現れます。それぞれの楽器が異なるパートを演奏し、それが集まって一つの音楽が出来ているのですから、そのような横揺れは不自然ですし、個人の音楽の感じ方とその発露のありようがそっくり同じなどということはありえません。生田先生がおっしゃっていたように、本質を見極めないで形から入ろうとすると、こういうことが起きるのでしょう。

 6月9日の音楽と身体性の授業には、共感する部分がたくさんありました。私の楽器はサックスですが、サックスもジャズでの活躍が注目されるので(これはサックスが新しい楽器であるため、いわゆる古典的な曲が書かれたころにはまだ楽器そのものが無く、オーケストラに入れてもらえないということもあります)、しばしば黒人プレーヤーとの比較がなされます。日本人とは違う、あれは黒人にしか出来ない、と。確かに日本人は小柄ですから、息の量や響かせられる体の部位が小さい(楽器が鳴るとき、音は楽器のみから発せられるのではなく体も共鳴体になっています)という点で不利でしょう。また唇の厚さが音の豊かさに影響するリード楽器ですので、黒人の方々に比べると、日本人の唇は貧相なものかもしれません。私も漠然とそう感じていました。しかし、それをスピリットが違うから無理だ、というのは自分で自分の可能性を摘み取ってしまっているようなものですよね!(私の目からウロコ落ちC)音楽にノれない日本人を、国民性から紐解いてゆくのも面白そうです。サックスにおいてはその差をどのように乗り越えてゆくのか、私はまだまだ考察も経験も不足していますが、藤井さんの授業や二軸の動きをヒントに模索してみたいと思いました。

 良い演奏が出来た時ほど何も覚えていない、というのは本当に良く分かります。競歩の杉本さんが優勝した時のレースを何も覚えていない、とおっしゃったのも得心できます。練習中にうまくいったとき、本番のためにその演奏を
思い出して再現してみようとするのですが、悔しいほど何も思い出せないのです。逆に失敗した時の演奏は嫌になるくらい鮮明に覚えています。また、いいソロを聴かせようとか、賞を獲ろうなどと意識しない方がかえって成功することも、身をもって何度も体験しました。

 グルーヴについては、高校時代に自分でも面白いことをやっていました。音符と音符の間に線を書いて音のイメージを視覚化することがあったのです。あくまでイメージに過ぎませんし、そんな簡単に視覚化できるものでないこと
も分かっています。何より本番中の譜面というのはお守りみたいなものですから。ただ、書かれた音符と音符との間の部分をいかに歌いこむか、それが表現力の差であり、演奏家の個性なのだということの理解です。
 文学部の身としては、文章における「行間を読む」ということとの関連も浮かびました。活字の行と行の間から情景が迫ってくるような体験ですね。また書道や水墨画においても余白が重要視されます。…運動科学は怖いくらいどこまでも広がっていきますね。

 遠山の耳付け。これ、いい言葉ですね。言い得て妙です!(私の目からウロコ落ちD)
 例えばアンサンブルをした時、まず曲選びの段階では全体を聴きます。曲が決まると自分のパートを聴きながら楽譜を追うことを何度かやります。これが曲を覚えるのには手っ取り早いからです。しかし、いつまでも自分のパ
ートにばかり固執していてはアンサンブルとはいえません。メンバーが大体自分のパートが吹けるようになって他の楽器を聴けるようになって、ようやく曲作りに入れるのです。自分勝手な中心軸的な演奏では、絶妙な音楽は生み出せないのですね。

吹奏楽に見る主観と客観

 これまで、演奏に関わる描写を何度かしてきました。息が入る入らない、などそうです。私はこれらが小田先生に正しく伝わったかどうか、とても心配です。というのも、音楽の世界にも主観と客観の問題が非常に大きく横たわっているからです。